A Christmas Gift from Deconstructionist Santa Claus

先日16日に提出した期末ペーパーに、担当教官からの返事が早くも帰ってきました。これが、ちょっとびっくりするくらいホメてくれて、(もっとも、facebookでつながっているクラスメートのポストを見るとみんなに優しいコメントをくれているようですが)、とても嬉しくなりました。「磨いて、どこかに掲載させた方がいいよ」と言ってもらえて、俄然テンションが上がりました。そう、おだてに弱いんです自分。単純だなあ。単純といえばシャ乱Q「そんなもんだろう」です。

ともあれ、特に予定もなく、いいコーヒー豆でも買うかあ、くらいにしか考えていなかったクリスマス前に、脱構築主義のサンタさんからありがたいプレゼントが届いたのでした。英会話が下手なのでここのところヘコむこともあったけれど、書き英語はexcellentだとホメてもらえて、根本的に能力が足りないわけじゃないんだ、と少し自信がつきました。

 

 

ペーパーのタイトルは、"Allegory of The Heart is a Lonely Hunter"としました。内容はタイトル通りですが、Carson McCullersの第一作 The Heart is a Lonely Hunterを、Walter Benjaminのアレゴリー論に対する脱構築論者たちの解釈を参照しながら読み解くというものです。もともと今年の一月に、新歴史主義的アプローチをとりつつ、同時代のポピュラーフロントの台頭や統計技術の浸透を背景にして同小説を読むという学会発表をやっていたので、ある程度アイディアや引用箇所などの下地があったのに救われました(というか、実質3~4日でゼロからペーパーを書くのはたぶん自分の今の力では無理でした)。ただし、昔イェールでポール・ド=マンに師事したという担当教官は歴史主義やマルクス主義批評がまったくお好きでないらしいのが明らかだったので、ガラッとアプローチを変えて、この小説におけるコミュニケーションの不在という問題を、"dialectics at a standstill" (静止した弁証法)や"spacialized time"(空間化された時間)という概念を鍵語として読み直しました。初めての試みだったし戸惑いもありましたが、結果としては、テクストの読解について何度かブレイクスルーの瞬間があって、いくつも新しい発見があり、書いていてとても楽しかったです。自分で書いたものと向き合うと、テクストを精読する技術はぐんぐん向上してきていると感じることができます(昔がひどすぎるのはさておき)。

 

 

少し研究手法について思うこと。

ある日のこの先生のクラスでのやり取り。

先生「歴史主義とかジェイムソンなんてダメザンス。ベンヤミンのいうmaterialist historicismはマルクス主義なんかとは根本的に異なっているんザンス。廃墟のイメージやショック・トラウマのイメージに注目するベンヤミンの神髄は、causalityや時間のsuccessivity を破壊するところにあるのでおじゃる。歴史主義は歴史がありのままに再現できるかのように振舞うのがダメなのでおじゃる。」

生徒(自分ではない)「でも、ジェイムソンがabsent causeを語るときに、彼の言う歴史とはあくまでも表象不能な大文字の歴史ナリ。彼は無意識の領野を視野に入れているし、だとしたらベンヤミンの言っていることとジェイムソンの言っていることはそんなに違わない気がするナリ」

先生「違いは破壊の概念があるかどうかザンス。マルクス主義や普通の弁証法はわれわれの思考をある方向に持っていこう、あるいはtotalizeしようとするからいくないザンス。」

生徒「でも、脱構築だってある意味では思考を制限、totalizeしていると思うナリ。」

先生「確かにそうザンス。同意するザンス。でも、脱構築はそのことに自覚的なのが違うザンス。だから、脱構築には新しい言葉を生みだすことができるんザンス」

ここで議論終了。

授業の最後の方で、このクラスメートに触発されて、自分もちょっとしゃべりました。

ベンヤミンのエッセイ「翻訳者の役割」の議論を思い出したピョン。「純粋言語」概念について語るとき、ベンヤミンは二つの言語を花瓶の破片にたとえていて、破片のそれぞれが互いをたどるさまは、特定の言語と純粋言語の関係にかかわりがあると示唆しているピョン。ド=マンはこのエッセイを精読しつつ、「破片は破片。決して全体を形作ることはない」と論じているけれど、ひょっとして、点線で描かれた全体像みたいなものを想定することはできないのかしらむ。(意訳。本当はもっと支離滅裂だったはず)」

結局バッサリと切り捨てられましたが、この日のやり取りはとても刺激的でした。

 

自分は脱構築的読解の経験がほとんどなかったので、今回の講義は本当にいろいろなことが勉強になったし、新しい視点を取り入れることができたと思います。ただ、現時点で自分なりにいい加減にまとめると、この手法はこの手法で、「泣く子はいねーがー」的に、「テクストが内破している瞬間はねーがー」とある種の宝探しをすることから自由ではないと思います。いいかえると、歴史主義が歴史コンテクストを描写して、そこにテクストを位置付けてみるとき、ある程度は不可避的に還元主義的性格が出てしまい、時として「金太郎飴」的になってしまうのと同様に、脱構築もまた、歴史を参照することはないにせよ、方針としては制約を受けていて、綻びをほどいたり撹乱するという別の金太郎飴作りになってしまう側面がないとはいえないのではないでしょうか。

 

 

こう考えてくると、どの手法を取るかというのは、バイアスのかかっていない手法が存在しない以上、「その解釈をすることによってどんな益が生み出されるか」という、一つメタレベルの政治的な問いに結びつくことになるのかもしれません。そうであるならば、差し迫った今日的な問題系―グローバル化という曖昧模糊とした隠れ蓑をまとった新自由主義化の進展、そしてそれと密接に結びついた日本の右傾化、さらにそれが隠蔽する格差の拡大など―に対して自分の研究が何でありえるのか、という問いに、自分の研究手法は向き合うものであってほしいと思います。(だから歴史主義だ、とは結論していません。)

 

 

ただ、改めてこの講義のペーパーを書く作業はとても勉強になりました。脱構築の論者は、思想史の系譜をたどることはあるけれど、基本的には外部を参照することなく、とにかくテクストをよく吟味します。もちろん歴史主義の論客も特に一流の人たちはほれぼれするような鋭い読みを見せてくれるけれど、どちらかというと歴史主義の読みがテクストのマクロな「構造」に光を当てる傾向にある(と思う)のに対して、脱構築の批評家たちは単語の一つ一つの語源までたどったりして、よりミクロなところに関心がある気がします。そのギラギラした緊張感、読むことのスリルみたいなものは本当に刺激的で、もっともっと自分もそこから多くを学びたいと思うのでした。

 

 

久しぶりに長く、まじめな話を書いた気がします。今後はもっとくだんないことばっか書きます。

Merry X'mas!